北陸戦国史考

越中国を中心とした北陸地方の戦国史を考察していきます。

神保長職の新出史料

「河州石川郡畑村関本氏古文書摸本」*1に、神保長職から河内国守護代遊佐長教(1491~1551)に宛てられた文書があることがわかった。「河州石川郡畑村関本氏古文書摸本」は、三浦蘭阪(1765~1843)という医師が河内国石川郡畑村の旧家関本家所蔵の古文書群を写し取った摸本であるが、分量が多かったため、文書群の後半は宛名・差出人のみを写すに止めた。長職書状は「遊佐次郎左衛門尉殿 長職」とだけ記され、残念なことに本文を写し取られていないため、文書の内容はわからない。だが、蘭阪が「包紙に神保孫三郎とアリ」と記しておいてくれたことから、従来不明であった長職の仮名は孫三郎であることがわかった。また、越中神保長職が、河内の遊佐長教と交流を持っていたことから、畠山氏分国の越中と河内の関係は、天文の越中大乱の際に河内守護家が能登畠山家に調停を依頼していた事実があるように、依然密接であったことがわかる。
 
孫三郎といえば、神保氏中興の祖、長職にとっては祖父にあたる神保長誠(宗右衛門尉、越前守)の仮名である。父とみられる慶宗(宗右衛門尉、越前守)は養子だったためか、仮名「道五郎」であるが、「孫三郎」こそが長誠の係累を示す嫡流の仮名であると推定できる。孫三郎を名乗り、宗右衛門尉を名乗った長職は、明確に神保長誠の流れを引く嫡流であるという自負があったことが名乗りからうかがえる。であるならば、史料にこそ残っていないが、祖父長誠、父慶宗が名乗っていた宗右衛門尉を継承した長職は、当然官途名「越前守」をも称していたと考えるのが自然ではなかろうか。*2
 
ところで、同じ孫三郎を仮名とする神保一族に、神保長国がいる。史料に現れるのは二点のみで、元亀3年(1572)10月28日、専福寺被官黒河村源右衛門に公用等諸役免除を認めている(県1796)のと、天正5(1575)年2月、京都の清水寺成就院越中帰還、武運長久を祈願しているものである。郷土史家久保尚文氏は、長国は京都にいて越中帰還を祈願していることから、境遇が似ている神保長住と同一人物とすべきであるとされている*3。両名の花押は異なっているが、花押を変えることは珍しくない。一般に神保長職の嫡子であると推定されている神保長住の仮名は不明であるが、神保家嫡流の仮名孫三郎を称する長国=長住ということであれば、整合性がとれる。久保氏の同一人物説を支持したい。
 
この「河州石川郡関本氏古文書摸本」の新出神保長職史料は、twitter上での179@擁護派氏のtweetにより得た情報であり、氏には深淵なる感謝を申し上げる。
 

*1:「畠山氏による和泉守護細川家の再興-「河州石川郡畑村関本氏古文書摸本」の紹介-」馬部隆弘『三浦家文書の調査と研究-近世後期北河内の医師三浦蘭阪蒐集史料-』大阪大学大学院日本史研究室・枚方市教育委員会2007

*2:慶長十年以前に成立の往来物『富山之記』には、富山城主として神保越前守が登場する。ところが、神保越前守は長誠、慶宗の官途であり、彼らは富山城に居城していないから、信憑性に欠けていると思われていた。長職も越前守を称していたなら、『富山之記』の記述に矛盾はなく、神保長職在城期の富山城下の実態をある程度は伝えている書物なのかもしれない。

*3:越中富山山野川湊の中世史』桂書房2008