北陸戦国史考

越中国を中心とした北陸地方の戦国史を考察していきます。

《仮説》永禄九年六月上杉輝虎の第四次越中侵攻

はじめに

本稿では、永禄9年6月の上杉輝虎越中侵攻を検討する。なお、本稿の作成に当たっては、ブログ『越後長尾上杉氏雑考』及びその管理人la_cometa_rossa氏とのtwitter上でのやり取りにより多大なご教示を受けた。深く感謝申し上げる。また、関東情勢に関わる文書の年次比定については、黒田基樹氏の見解*1に従った。
 
永禄3年3月、長尾景虎は初めて越中侵攻を行い(第一次越中侵攻)、神保長職の圧迫を受けている椎名氏を援けて長職を逃亡させた。その後再起した長職は再び椎名氏への攻撃を続けたため、永禄5年の7月と10月、上杉輝虎は再び神保長職討伐のため越中侵攻を行い(第二次、第三次越中侵攻)、長職は能登畠山氏の仲介により降伏した。神保長職上杉輝虎の対決はこの三度のみというのが『富山県史』以来の通説となっている。本稿では、その後の永禄9年6月、四度目の対決があったとの説をここに提起するものである。
 
また、史料の掲出に際しては、『上越市史別偏1上杉氏文書集一第〇〇〇号』を「上越〇〇〇」、『富山県史史料編Ⅱ中世第〇〇〇号』を「富〇〇〇号」のように略記した。

上野出兵の中止から越中出兵へ

 上杉輝虎は、永禄8年11月末、関東へ出陣し(上越478)、年が明けると、3月23日、下総国臼井城攻めで一敗地に塗れた。帰国後、5月9日に神仏に対し、北条氏康との和睦、武田信玄の撃滅、上洛して公方を擁立せんことを祈願した(上越511)。その後輝虎は、7月24日に再び越山のため府内を発つが、この6月~7月の間、輝虎が越中へ出陣していたとみられる。

それでは具体的に輝虎の動きを見ていく。5月22日、上州厩橋城主北条高広から急報があり、武田軍が安中口に現れたとの報告を受け、栗林政頼、長尾景貞らに急行を命じた(上越457)。しかしその三日後の25日には、武田軍来寇の報は誤報であったことが判明し、大井田国景、栗林政頼に越山は当面必要ないことを伝えた。これらは『上越市史』などで永禄8年と比定されているが、黒田基樹氏は花押形により永禄9年に比定すべきであるとされている。この見解に従うと、6月の越中への出陣が理解しやすい。つまり、上杉輝虎は、武田軍出現の報を受けて5月下旬の時点で上州への出陣を予定していたが、武田軍出現が誤報であることが判明した結果、越山を取りやめた。ところが既に軍事動員をかけてしまっていたので、せっかく集めた兵を空しく解散するよりはと、予定になかった越中攻めを行ったのではないかと思われるのである。

 

《史料1》吉江玄蕃丞宛上杉輝虎感状写 『謙信公御書集巻六』(上越517)

去朔日、神保相働之刻、走廻首討捕候、高名無比類稼、感入候、猶以無油断忠功、専要候也
              永禄九
                    六月七日          輝虎
              吉江玄蕃丞殿 

                     

 これによると、永禄9年6月1日、場所は不明だが、おそらく越中国内で上杉軍と神保軍が合戦し、吉江玄蕃丞(景利ヵ)が戦功をあげたということがわかる。ただし、この文書は写しのため、取り扱いには慎重を要する。 萩原大輔氏は、この戦いは謙信自身が出陣したわけではなく、配下部将との小競り合いであり、永禄5年以降の北陸戦線は膠着状態にあったと判断してよいと評価されている。*2
 
では、他の史料から、この年の越中陣について傍証となるものはないのだろうか。
 
  
《史料2》 上越市史別編1(992)上杉家文書

 

 急度以飛脚申候、其表弥属御存分義、珎重候、仍雖可為御無心候、乗心可然馬一疋所望候、御同意可為祝着候、恐々謹言、

 

   六月十日  修理大夫義綱(花押)

 

  謹上 上杉殿

 ※下線部筆者

 

 《史料3》上越市史別編1(1430)上杉家文書
雖遠路候、早速馬一疋黒毛上給候、殊更乗心一段秘蔵此事候、仍宮王丸義、種々御懇意乃旨、祝着候、弥御入魂憑入存候、恐々謹言、

 

   六月十一日  悳祐(黒印)

 

  謹上 上杉殿

 

 この二通の書状は、某年6月10日、能登国守護、畠山義綱・徳祐父子が上杉輝虎の陣中に勝利を祝う使者を送り、乗り心地の良い馬を所望した書状と、某年六月十一日、所望した馬が早くも届き、喜んでいることを報じたものである。二通目の書状は義綱の父徳祐が発信しているが、悳祐は義綱を補佐しながら統治をしていたようである。また、宮王丸の事に触れているが、これはおそらく能登畠山氏からの人質で、徳祐の息子に当たるのであろう(後の上条政繁と思われる)ことから、徳祐が発信したのだろう。いずれにせよ、この二通の書状は、内容からして同年のものであることは間違いないだろう。
 注目したいのは、6月10日に所望した馬が、早くも翌日には届き、11日付で礼状を送っていることである。悳祐は「遠路」と言っているが、義綱父子と輝虎は半日程度の至近距離にいたことになろう。
 では、この書状の年代はいつなのだろうか。畠山父子は、永禄9年9月、重臣たちにより七尾城を追われる。それ以前のものであるとすると、七尾から半日程度の至近距離で、上杉輝虎が勝利した陣中ということになると、越中しかありえない。そして、6月に越中で上杉勢が戦った可能性があるのは、まさにこの永禄9年しかないのである(第一次越中侵攻時は3月、第2次、第3次はそれぞれ7月、10月)
 そしてこの時、上杉輝虎は、能登七尾から半日程度の距離にいた。距離的に考えて、放生津、守山、氷見あたりが考えられるだろう。神保軍を撃破した後、占領地の陣営で畠山父子と書状のやり取りをしていた可能性が高い。

 

では、越中側からこの時期の情勢をみてみよう。
 
《史料4》神保長職寄進状 『富山県史』資料編中世1666
寄進之地、長福寺分、如前々可有所納候、若後日ニ於有違乱之輩者、堅可申付候、仍如件、

 

              永禄九
                   六月十一日          長職(花押)
                        本覚寺

 

《史料5》神保氏張寄進状写
(『汲古合編』稼堂文庫 *3
奉寄進氷見金橋山千手寺永領之事、阿怒庄加納村之内月成
公用参貫三百文并拾疋之北市町屋口路橋之義者、如法経令
寄付乍依之老親一道、同拙夫逆修毎年法華之如法経弐部至盡未
来可(遶)給旨現当珍重不可過之者乎永代於子孫不可(有)違乱然者
先年寺嶋名中両代彼地、就致寄進長職寺内十一ケ条之掟殊彼
加納之公用北市町屋口路橋等重而書載五ケ条之禁制判形之上者
長久無侘之妨全可有御知行者也、仍後證之状如件

 

   永禄九年六月十二日      神保宗五郎氏張 判
 
   氷見金橋山千手寺慧遍法印参

 ※筆者一部補正

 

 《史料4》よると、6月1日に上杉軍と合戦を終えた僅か十日後、神保長職は、本覚寺婦負郡滝山城下にある一向宗寺院)に、寄進地の確認をしている。これは、富1631号の(水越)勝重寄進状に対応するもので、この時永禄5年4月17日に長職の意を受けて家臣の水越勝重が寄進した「槻尾殿知行のうち、長福寺分五百苅畠野山」が、まさに長職が確認した寄進地となるのであろう。

 では、なぜこの時期に長職が勝重寄進地の確認をしているのだろう。考えられるのは、神保勢の敗退の結果、長職の権力基盤が揺らいだため、本覚寺から永禄5年時の寄進を再確認してほしいという要請があったという可能性が考えられる。

 また、永禄8年3月、本願寺顕如は、武田信玄と盟約を結び、上杉輝虎に対して一致して協力することを定め、越中表のことについて信玄の下知に従うとされた(富1662)。

 この時越中一向一揆勢は上杉輝虎とまだ戦端を開いてはいないが、この盟約からも、明らかに反上杉の立場にあったことがわかる。長職はこの盟約について知っていたかどうかわからないが、劣勢にある神保家としては、一向一揆勢に期待するところは大であっただろう。

 

 《史料5》は、神保氏張の初見史料であるが、ほぼ同時期、氷見の千手寺に寄進をしている。千手寺真言宗の寺であり、一向一揆勢とは無関係なので、長職が本覚寺へ寄進確認をしたことと同一視はできない。それではこの寄進状は何を意味するのだろうか。

 ここで今一度、《史料2》、《史料3》を見て頂きたい。日付に注目してみると、悳祐が礼状を送った翌日の六月十二日と同日に神保氏張は氷見の千手寺に寄進地の確認をしている。つまり神保氏張はこの時氷見にいたが、畠山父子の書状を受け取った上杉輝虎も、七尾から半日の距離、つまり神保氏張のいた氷見に近いところにいた可能性が高い。

 そこでこの寄進状の内容をよくみてみると、寺島氏が以前に寄進した土地や、神保長職の出した掟などを確認する内容となっている。これは仮説であるが、神保氏張は、神保長職とは立場を異にしており、上杉輝虎に従っていた。そして輝虎の威光を背に占領者として氷見の地に入り、旧権力者長職の安堵した寺領を、新占領者氏張が保証した、という内容のものではないだろうか。

 

さらに、《史料6》を見てみると、(永禄9年)7月16日、畠山義綱は、足利義秋からの上洛の出兵依頼に対し、隣国の錯乱を理由に辞退している。この隣国の錯乱というのは、従来加賀の一向一揆に関連するものと思われていたが、永禄9年の6月に上杉輝虎越中に侵攻していたとするならば、これは越中における錯乱を意味しているのではないか。実際には7月の時点では既に和睦が成立していた可能性が高いが、義綱としても上洛支援を断る口実としてこの錯乱を理由にしたことは考えられるだろう。


《史料6》

就御入洛之義雖被成、御内書候、前代数度之御尊書相違 候而、不及御請候、委細御使へ為見置候、各無案内尤候、仍出勢之儀蒙仰候へ共、隣国近日者以外錯乱、当時牢人共端郡令籠居候条、令出馬刻候、以御心得被露可被申候、何辺只今以使僧言上候条、取成肝要候、猶遊佐美作守可申候、恐々謹言、

 

 (永禄九年)七月十六日 (畠山)義綱(花押)
 一色式部少輔殿(藤長)
 和田伊賀守殿(惟政)
 三淵弾正左衛門尉殿(藤英)

 ※下線部筆者

 

おわりに

 ここまで、わずかな史料から、永禄9年に上杉輝虎越中に侵攻していたという説を提起し検証した。
永禄9年5月下旬、越中に侵攻した輝虎は、6月1日、神保長職と合戦に及び、勝利をおさめた。関東が気になる輝虎は長職を追い詰めることなく、程なく和睦を結び、7月下旬には越後に帰還し、慌ただしく関東へと出陣して行ったと思われる。短期決戦だっただけに史料もあまりなく、これまで見過ごされてきたように思われるが、断片的ながら永禄9年6月に上杉輝虎越中に侵攻していたことを示唆する史料が見出せた。
 また、神保長職は永禄5年の第三次侵攻で完全に降伏してしまったわけではなく、永禄5年以降も反上杉方勢力として存在し続けていたということがわかった。永禄9年9月9日、謙信は椎名家臣薗、馬杉に神保長職との戦闘を戒めており(上越525)、対立状況はまだ続いていた。*4神保長職上杉輝虎の与党となるのは、永禄11年の椎名康胤の上杉方離反を契機にしたものである可能性が高い。

最後に、自らの研究成果である永禄9年6月の越中陣説をブログに公開し、さらにtwitterで懇切にご教示頂いたla_cometa_rossa氏に重ねて感謝申し上げます。

 
 
 

*1:上杉謙信の関東侵攻と国衆」『戦国期東国の大名と国衆』(岩田書院

*2:「謙信、越中出馬」富山市郷土博物館2017、「上杉謙信越中出兵(『上杉謙信』高志書院2017)」

*3: 富山史壇128号 横澤信生「神保氏張の父について」)

*4:「有澤系図」『越中志徴』有澤氏伝は永禄9年9月15日にに有澤太郎左衛門が討死したと述べ、翌永禄10年7月29日に有澤小法師が土肥政繁から家督を安堵されている(富1671)。この有澤太郎左衛門の討死が事実なら、何らかの衝突があったものかもしれない。あるいは、9月7日には能登畠山父子が七尾を追放され、畠山左馬介が越中岩瀬へ逃れる騒乱が起こっているから、これに関連する可能性もある。